曰記

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金田康正先生のこと

2020年2月11日に金田康正先生が急逝されました。金田先生の教え子の方から教えていただき、まだ元気そうだったのに、と大変驚きました。ここ最近は年賀状をやりとりするだけでしたが、いつも先生の短いながらもやる気に満ちた文章が書いてあり、まだまだ活躍されるはずだったのに、と残念でなりません。

金田先生に初めてお会いしたのは2003年、私が博士課程3年の時でした。金田先生は私の博士論文の副査になっていただきました。分野によるのでしょうが、私が当時在籍した工学系研究科では、予備審査の前に副査の先生に博士論文を持参し、挨拶がてら内容を説明する、という習慣がありました。私は印刷した博士論文を持って、情報基盤センターの金田先生の居室に伺いました。大量の本や書類のジャングルのような部屋の奥に金田先生の机(?)がありました。何しろ書類が積みあがっているので、どこで仕事しているんだろう、と疑問になるような部屋でした。勧められるまま書類をかき分けて椅子に座り、そこで博士論文の内容を説明すると、特に最適化アルゴリズムのところに興味を持たれたようでした。内容を説明する前に「ちょっとまって!いま考えてみるから」と自分で考えてみて、しばらくして「・・・どうやるの?」と聞かれたので説明すると「へぇ~面白いね」と感心したように言ってくださったのを覚えています。博士の予備審査はスムーズに終わりましたが、本審査は(私の準備不足もあり)数時間のサンドバッグとなりました。ようやく終わった後、金田先生は「いやぁ、真面目に審査するんだねぇ。えらいよほんとに」と笑っておられました。

無事に博士号を取得し、名古屋大学に助手として赴任することになったことを伝えに行くと、「へぇ、僕も博士とったあと名古屋に行ったんだよ」とおっしゃっていました。また、結婚の報告もすると「お、そういうのなんていうか知っている?学位取得、就職、結婚を同じ年に決めることを三冠王っていうんだよ」と笑っていました。また「就職が決まったら、あとは海外留学だね。僕もイギリスに行って、たくさん友達を作ったんだよ。渡辺君も早くどこかに行った方がいいよ」とケンブリッジの思い出話をよくされていました。

名古屋大学での研究生活は恵まれたものでしたが、博士課程在籍時に地球シミュレータを使いこなせなかった後悔が強く、次の国策スパコンは絶対に使いこなしてやろうと思っていたところ、指導教員であった伊藤先生から「5年間スパコンをがっつり使うプロジェクトを立ち上げるから、東京に帰ってこないか」という誘いをうけ、名大の助教をやめて東大情報基盤センターのポスドク(職名は特任講師)になることにしました。常勤の職をやめる場合、異動先から異動元に「割愛願い」というものを出します。これは「貴大学の人材をうちにください」とお願いする文書です。分野や学科によるのでしょうが、通常は郵送のみか、電話で挨拶をするにとどめることが多いようです。しかし、私の場合は東大からわざわざ伊藤先生と金田先生が名古屋大学に挨拶に来てくださいました。名大の森敏彦先生(当時専攻長だったか研究科長だったかよく覚えていません)が、任期なしのポストから任期のあるポスドクになることを心配されてましたが、金田先生が「大丈夫でしょう、渡辺君なら」と言ってくださったのを覚えています。

東大情報基盤センターでは、金田研究室に所属して、そこでスパコンの調達についていろいろ教えていただきました。金田先生のご自宅のホームパーティに招かれたこともあり、そこで子育ての苦労話を聞きました。また、情報基盤センター在籍時に、あの「事業仕分け」がありました。私は間近で金田先生の仕分けや、ノーベル賞フィールズ賞学者たちの集会を見ていました。事業仕分けについては「二位じゃダメなんでしょうか」をはじめとして、一部の発言を切り取った報道をされることが多く、金田先生の発言もなかなか真意が伝わっていなかったように思います。

情報基盤センターには2年ほど所属した後、東大物性研に異動しました。物性研は柏キャンパスにありましたが、用事があって本郷に行くことも多く、都合があえば弥生にある金田先生の居室に挨拶に伺っていました。相変わらず足の踏み場もない居室で、お茶やケーキをごちそうになりつつ、先生の出版された本の話などの近況を聞くのが常でした。先生の最終講義を聞いた後、予定が合わず祝賀会を欠席したため、後でまた研究室に挨拶に伺ったところ「最終講義、面白かった?」と、先生がややはにかみながら聞いてきたのを覚えています。

先生が定年退官され、私も慶応義塾大学に異動し、いつかご挨拶に伺おうと思いつつなかなか機会を作れずにいたところに訃報に接しました。生前、先生が「コンピュータ博物館を作りたいんだ」と、大学の地下室に集めに集めた、一見ガラクタのようにも見える大量の貴重な資料の山を見せていただいたことがあります。お通夜で他の方に聞いたところによると、これらはご実家に運んで本当に博物館を作る準備をされていたとのことでした。その実現の前に先生が亡くなられたのはとても残念です。

先生はよく「スパコンを本当に使いこなせる人材は少ない。意欲のある研究者なら誰でもスパコンを活用できるようにすべきだ」とおっしゃられていました。私も今後、スパコンを使いこなせる人材を世に送り出せるよう、微力ながら努力したいと思います。

金田先生には大変お世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。